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大阪高等裁判所 昭和46年(う)1048号 判決 1972年7月17日

主文

原判決を破棄する。

本件を大阪地方裁判所に差し戻す。

理由

検察官の控訴の趣意は大阪地方検察庁検察官検事吉永透作成の控訴趣意書に記載のとおりであり、これに対する答弁は弁護人佐々木哲蔵、同内藤徹連名作成の答弁書に記載のとおりであり、被告人及び弁護人の控訴の趣意は右弁護人両名連名作成の控訴趣意書に記載のとおりであるので、いずれもこれを引用する。

検察官の控訴趣意について。

検察官の控訴趣意第一点、訴訟手続の法令違反の主張について(被告人の司法警察職員及び検察官に対する各供述調書の証拠能力について)

論旨は、原判決は本件公訴事実中、強盗殺人死体遺棄の事実について被告人に対し無罪を言い渡し、その理由の一として右事実に関する被告人の司法警察職員及び検察官に対する各供述調書は証拠能力がないものとし、その根拠として、(一)被告人が原判示第一及び第二の詐欺の事実について逮捕勾留(以下第一次逮捕勾留という)中に作成された被告人の司法警察職員に対する昭和四〇年一一月一一日(以下特に年を記載しないのはすべて同年である)付供述調書は、(イ)第一次勾留の理由及び必要が存続している間にこれに並行して右強盗殺人死体遺棄の事実について被告人を取調べて作成されたものであるが、右は第一次勾留の事実を基準として自ら存在する他事実についての取調べの許容限度をこえて憲法三三条所定の令状主義に著しく違反する違法な見込捜査であり、(ロ)しかも、同月七日午前一〇時ころ、大阪府警察本部刑事部捜査一課司法警察員帰山次夫捜査主任(以下帰山刑事という)が右強盗殺人死体遺棄事実の取調べに着手したところ、被告人が佐々木哲蔵弁護士を弁護人として選任したい旨申し出たのに刑事訴訟法七八条、二〇七条、二〇九条に違反して同弁護士あるいは同弁護士所属の大阪弁護士会に対しなんらの通知をせず、被告人の弁護人選任権、防禦権を著しく侵害した状態で同月七日から同月一一日まで強盗殺人死体遺棄事実の取調べをし、(ハ)その取調方法も被告人に正座を強要し厳しい取調べをするなど妥当でないものであり、以上の違法な取調べの結果得られた自白を内容とする供述調書であつて、かかる供述調書は任意性に疑があり、証拠能力がないのみならず一切の司法判断の資料となし得ないものであるとし、(ニ)被告人は右自白後同月一五日強盗殺人死体遺棄の事実について逮捕、同月一七日勾留された(以下第二次逮捕勾留という)が第二次逮捕勾留は右司法判断の資料となし得ない右一一月一一日付供述調書を資料としてなされた不法拘禁であり、第二次逮捕勾留中に被告人を取調べて作成された被告人の司法警察職員に対する供述調書六通、検察官に対する供述調書一通は不法拘禁中のものであり、かつ第一次逮捕勾留中になされた取調べの瑕疵を承継するから、証拠能力を有しない旨判示している。しかしながら、原判決も認めるとおり、本件においては、詐欺事実による第一次逮捕勾留の理由及び必要の存続中に右詐欺事実と並行して強盗殺人死体遺棄の事実について取調べたものであるから憲法三三条の令状主義に反する違法な取調べではなく、また被告人は帰山刑事からら堀川允子(以下単に允子という)との関係をきき出されるに及んでその激情的な性格からら反射的に一回だけ「佐々木哲蔵を呼べ」とどなつたものにすぎず、その後はそのまま取調べに応じ、同弁護士に連絡しないことに不服を申し立てず、右詐欺の事実について逮捕勾留された際及び強盗殺人死体遺棄の事実で逮捕勾留される際にいずれも司法警察職員、検察官及び勾留裁判官からその都度弁護人選任権の告知を受けながら弁護人を選任する意思を全く表明しておらず、起訴後の裁判所からの弁護人選任の照会についても不要の回答をし、当時被告人の所持金は僅か一、三〇〇円位しかなく私選弁護人を選任する資力もなかつたのであり、これらの事実からみると、被告人の右言辞は真意に出たものではないと認めるべきものである。さらに捜査官の同月七日以降同月一〇日強盗殺人死体遺棄の事実について自白するに至るまでの被告人に対する取調べは、被告人と允子との交際の状況、金銭の貸借関係を主体として同女の失踪事件の重要参考人としての取調べにとどまり、強盗殺人の取調べをしたのではなく、取調方法も不当に長時間にわたつたり手錠をかけたことも正座を強要したこともなく、不当なものではなかつたのである。そして被告人の各供述調書に任意性がないとするためには強制拷問脅迫等と当該自白との間に因果関係が存在することを要するのであつて、かりに原判示のような事実があつたとしてもそのことから直ちに自白の任意性が否定されることにはならず、自白との間の因果関係の存否が問題とされなければならない。原判決はこの点について全く触れず直ちに任意性がないものと判断しているのは失当である。さらに第二次逮捕勾留は証拠能力を否定されるべきでない被告人の右一一月一一日付供述調書を資料としてなされたものであつて、かりに同調書が厳格な証明のための証拠能力がないとしても逮捕勾留の際の疎明資料となしうるものであり、また被告人は第二次勾留に際しての勾留裁判官の勾留質問に対し強盗殺人死体遺棄事実を認める旨供述しているから、罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があつたことは明らかであり、第二次逮捕勾留は不法なものではない。第二次逮捕勾留を不法拘禁であることを前提として第二次逮捕勾留中の被告人の供述調書の証拠能力を否定するのはあやまりである。かりに第一次勾留中に原判示のような手続上及び取調方法に瑕疵があつたとしても、その程度の瑕疵は第二次逮捕勾留中の取調べの結果得られた自白の任意性を左右する程度の重大な瑕疵とは解し難い。以上の理由で第一次勾留中及び第二次逮捕勾留中の被告人の強盗殺人死体遺棄の事実に関する供述調書の証拠能力を否定した原判決は訴訟手続の法令違反があり、破棄されるべきである、というのである。

よつて、まず強盗殺人死体遺棄の事実に関する被告人の供述調書の作成経緯についてみるに、<証拠>によると、次の事実が認められる。すなわち、本件の被害者とされる允子は昭和四〇年八月三日午後五時三〇分ころ勤務先(堺市立五箇荘保育所)を退出したまま、翌四日は当番日であるのに出勤しないので、同保育所用務員岡本晴雄及び同人から連絡を受けた同女の友人岡田逸子が、同日午前中電話で、允子の住む大阪市住吉区殿辻町七六番地所在の清和荘の清和園アパートの管理人小森ヒサエに問合わせたところ、允子は不在でドアに鍵がかかつているとのことであつた。允子は翌五日以降ずつと同保育所に出勤せず、その行方は不明であつたが、同年一一月一一日午後零時二五分ころ、神戸市東灘区住吉町無番地大月地獄谷の斜面雑木林中において、殆んど白骨化した死体として発見された。その間、允子の実兄平野安順、同堀川利純らは心当りをたずねまわり、八月六日堀川利純が住吉警察署保安係を訪れ、允子が行方不明であることを届出たが、同係ではこれを家出人保護願として処理し、また平野安順が同月九日清和園アパート二〇号室の被告人方を訪れて被告人に面会し、その際の被告人との話の内容から被告人に疑を抱き、八月一六日住吉署に赴いて被告人が疑わしい旨を警察官に報告したが、同署ではあまり捜査に力をいれようとしないので、同人らは允子の失踪を新聞記事にすれば警察も本格的に動き出さざるを得ないだろうと考えて知人の読売新聞記者に相談し、九月九日付同新聞朝刊に允子が一か月以上行方不明で他殺の疑いもある旨の記事が掲載された。大阪府警察本部捜査一課三班(強力犯担当、班長小林史朗警部以下一三名)は右新聞記事により允子が監禁あるいは殺害された可能性もあるとして、同日住吉署内に捜査本部を設け、捜査を開始した。そして平野安順らからの事情聴取その他の捜査の結果、九月一五日ころから被告人に疑をいだき、被告人の尾行、身辺捜査を行なつたが手がかりとなるものはなかつたが、一〇月はじめころ、被告人が尼崎信用金庫、大福信用金庫等多数の信用金庫から金員を受け取つている事実を探知し、右金員の受け取り行為を詐欺罪に該当するものとして、右詐欺罪で被告人を逮捕勾留して被告人の取調べをなし、その身柄拘束を利用して允子の失踪にからむ事件について併せて取調べようと考え、同月五日に原判示第一の大福信用金庫関係、翌六日に原判示第二の尼崎信用金庫関係の各詐欺の被害届関係人の供述調書を得、さらにこれと前後して原判示第三ないし第六、第九の各詐欺の被害届等の資料も整え、一〇月二九日大阪地方裁判所に対し原判示第一及び第二の詐欺の事実について被告人の逮捕状を請求し、同日その発布を得て一一月一日被告人を逮捕し(第一次逮捕)、翌二日検察官から同裁判所に勾留請求をし、勾留状の発布を得て同日勾留状を執行し、被告人は住吉署留置場に勾留された(第一次勾留)。捜査本部では被告人を逮捕した後、右小林班所属の帰山刑事が主任となつて、右逮捕の事実について被告人の取調べを行ない、同月一日から同月六日まではもつぱら同事実についての取調べをし、被告人の六通の司法警察職員に対する供述調書を作成し、一応同事実についての被告人の取調べを終了した(ただし、被害者側の取調はその後も続けられ、また検察官はその後一一月一〇日大阪地方検察庁で同事実について被告人を取調べ、被告人の検察官に対する同日付供述調書を作成している。)そして、翌一一月七日捜査本部では允子に対する殺人容疑について被告人の取調べに着手しようとし、同日午前一〇時ころ、帰山刑事が被告人に対し「今後堀川允子の殺人容疑で取調べる」旨告げて被告人に対しポリグラフ検査を実施しようとしたところ、被告人は「堀川のことできくのであつたら何故証拠を揃えて殺人容疑で逮捕して調べないのか。それでなかつたらいわない。佐々木哲蔵を呼べ。」と怒鳴るようにいうので、帰山刑事は上司の小林警部に対し被告人が右のようにいつている旨を報告したが、結局捜査本部からは佐々木哲蔵弁護士あるいはその所属の大阪弁護士会に対し何らの通知をすることなく被告人の取調べを続行し、被告人の承諾のもとに同日午前一〇時すぎからポリグラフ検査を実施し、同日午後から右帰山刑事及び柴田昇、実原昇の各警察官が強盗殺人の事実につき被告人を取調べ、厳しく追及したが、被告人は犯行を否認していた。そして翌八日、九日、及び一〇日午後とひきつづいて被告人を取調べたが、依然として否認のままであつたが、一〇日夕方になつて、取調中に被告人が允子の悪口をいつたので、帰山刑事らは被告人の正面の壁に允子の写真を貼りつけて「堀川の前でも悪口をいえるか」と問いつめたところ、にわかに被告人は悄然とした態度になり、同日午後六時ころから犯行の一部を自供しはじめ、午後一一時ころまでの間にかけて允子を殺害した旨を供述し、帰山刑事の求めに応じて允子の死体遺棄現場を示す略図(以下第一図という)を作成して帰山刑事に渡した。右自供に至るまでの間、取調べに際し、帰山刑事は被告人に対し、自ら正座をし「こちらの方がこういうように一生けんめいになつているのであるから、これをきく者はやはりそれだけの態度できくのが常識的とちがうか、正座せい。」という様な趣旨のことをいい、被告人がこれに応じて正座をしたことが一、二回はあつた。そして、翌一一日小林史朗警部以下約一〇名の警察官は右第一図を持つて六甲山に向い、午後〇時二五分ころ死体遺棄現場において允子の死体を発見した。一方帰山刑事は同日午前中に、前日の自供を内容とする被告人の供述調書を作成し、被告人が同日午後新たに作成した死体遺棄現場付近見取図(以下第二図という)を右供述調書末尾に添付した。一方同日の午前中被告人は第一次逮捕勾留の基礎となつた詐欺の事実について住吉署に勾留のまま原裁判所に起訴されたのであるが、同事実についての被害者側の捜査は一一月四日坂上陸郎、高沢靖、松井十四夫を(以上大阪信用金庫関係)、同月五日に布江庄三郎、同月八日に松尾尚三郎(以上尼崎信用金庫関係)を司法警察職員が取調べ、同月一〇日に松井十四夫、宮本正好を検察官が取調べて各供述調書を作成したほか、さらに起訴後の同月一二日に山口祐三郎、黒坂時雄、金田真一を、同月一三日には福田敏夫(以上いずれも尼崎信用金庫関係)を司法警察職員が取調べて供述調書を作成し、被害者側の証拠を整備した。かようにして強盗殺人死体遺棄の事実について被告人の自供を得た捜査本部は同月一一日同事実について大阪地方裁判所に対し、再び被告人の逮捕状を請求してその発布を受け、同月一五日被告人を再逮捕し(第二次逮捕)、同事実について被告人の取調べを続行し、同日付及び翌一六日付の被告人の司法警察職員に対する各供述調書を作成し、同月一七日同事実について同裁判所に対し被告人の勾留請求がなされ、同日勾留状が発布され、勾留状の執行により被告人は住吉署に勾留された(第二次勾留)。その後も同事実について被告人の取調べが続けられ、被告人の司法警察職員に対する供述調書四通(同年一一月一九日付、同月二〇日付、同月二二日付、同月二九日付、)及び検察官に対する供述調書一通(同年一二月三日付)が作成され、一二月六日被告人は同事実について原裁判所に起訴された。

原判決は略以上の事実関係のもとに、第一次勾留中に作成された被告人の強盗殺人死体遺棄の事実に関する昭和四〇年一一月一一日付供述調書は、第一次勾留の基礎事実を基準とする他事実の取調許容限度をこえて被告人を取調べて得た自供を内容とするもので著しく令状主義に違反し、被告人の弁護人選任権防禦権を侵害し、、かつ正座の強要という不当な取調状況下に作成されたもので任意性に疑があるものとして証拠能力を有しないのみならずすべての司法審査の資料となしえず、これを資料としてなされた第二次逮捕勾留は結局犯罪を犯したと疑うに足りる相当な理由なくしてなされた不法拘禁であり、不法拘禁中に作成された被告人の右同事実についての司法警察職員及び検察官に対する各供述調書は第一次勾留中に作成された右供述調書と一体のものとして評価すべきであるとして証拠能力を否定していることは所論のとおりである。

そこで検討するに、ある被疑事実の取調に当り被疑者を拘束するには裁判官の発する令状によることを要することは、憲法、刑事訴訟法の規定するところであるが、既に適法になされている被疑者の逮捕勾留中に、当該逮捕勾留の基礎となつた被疑事事以外の事実について被疑者を取調べることは一般的に禁止されるところではなく、またこれら取調べをしようとする事実毎に新に裁判所の許可を得なければ取調べをすることができないものでもなく、逮捕勾留の基礎となつた事実について逮捕勾留の理由及び必要が存続している間に、この事実の取調べに附随し、これと並行して他の事実について被疑者を取調べる限り、右取調べをもつて令状主義に反するものということはできない。ただ当初から当該逮捕勾留の基礎となつた事実について取調べる意図がなく、あるいは簡単にその事実の取調べを終つた後、もつぱらいまだ被疑者との結びつきについての資料のない本来の狙いとする他の事実について被疑者を取調べて自供を得る目的をもつて、前者の事実について被疑者を逮捕勾留し、その拘禁中に後者の事実について被疑者を取調べることは令状主義を潜脱し、被疑者の拘禁をもつぱら自白獲得の手段とする違法な捜査であるといわなければならない。かような見地から本件についてみると、前記のとおり、捜査当局は当初允子の失踪事件(当時は未だ允子の死体も発見されておらず、殺人或は監禁等の犯罪が推測し得る状態に過ぎなかつた)について被告人が何等かの関係があるのではないかとの疑を持ち捜査を進めていたが、同事実と被告人との結びつきについて十分な資料が得られず、捜査中にたまたま探知した詐欺事実について逮捕勾留し、同事実について被告人を取調べなおその被害者側の裏付捜査を進め、同事実による勾留の理由及び必要性の存続中に、同事実の捜査と並行して允子失踪事件につき被告人を取調べ、右事実につき被告人の自供を得、かつ允子の死体を発見すると、すぐに被告人に対し、更めて強盗殺人等による逮捕勾留を請求したものであつて、右捜査をもつて令状主義を潜脱する違法な捜査ということはできない。もつとも、前記経緯によつてみると、捜査当局は允子失踪事件の捜査が難行していたところから、たまたま探知した右詐欺の事実についてまず被告人を逮捕勾留し、その拘禁状態を利用して右失踪事件についても被告人を取調べる意図のあつたことは否定し難いところであり、この様な捜査方法は決して好ましいものではないけれども、右詐欺の事実(原判示第一及び第二の事実)は、それ自体長期間における多数回にわたる事案で被害額も多額にのぼり、同事実による逮捕勾留中はもとより起訴後も継続捜査を要したものであり、かつ右事件はその余罪として捜査追起訴にかかる同種の詐欺事実と併合審理の結果、原審において執行猶予付とはいえ懲役二年の刑が科せられた程度の重要性をもつ事実であり、かような事情からみても捜査当局の右意図及び捜査の過程が令状主義を潜脱した違法なものということはできない。したがつて、第一次勾留中に作成された被告人の司法警察職員に対する昭和四〇年一一月一一日付供述調書が令状主義に違反する捜査により得られた無効のものとする原判決の判断は誤つているものといわなければならない。そして、第二次勾留請求にあたつては、被告人は裁判官の勾留質問に対し強盗殺人の事実を認めていたことは検察官指摘のとおりであり、当時右一一月一一日付供述調書以外にも、司法警察職員及び検察官作成の各弁解録取書(いずれも自白)、関係人の供述調書、証拠物等が存したのであつて、被告人の右自供を裏付ける証拠はあつたのであるから、右第二次勾留を直ちに違法、無効のものとはいい得ないばかりでなく、被告人は同日第一次勾留の事実について勾留のまま原裁判所に起訴され、以後起訴後の勾留として適法に住吉署の留置場に拘禁されて(後にさらに一回勾留更新されている)いたのであるから、かりに第二次逮捕勾留が原判示のように実質的に疏明資料なくしてなされた違法なものであつたとしても、そのために右起訴後の勾留までもが違法不当のものとなるものではなく、第二次逮捕勾留中に作成された被告人の各供述調書が不法勾禁中の取調べの結果得られたものとする原判決の判断も誤つているものといわねばならない。したがつて、これら供述調書の証拠能力はもつぱらその間の取調方法等に違法、不当な点があつたか否かにより決すべきものである。

この点につき被告人は、第一次勾留中の警察官の取調べにつき正座の強制その他不当な取調を受けたと主張するのであり、帰山刑事が右期間の取調べに当り被告人に正座を命じたことのあることは前記のとおりであるけれども、この点に関し被告人は原審公判廷において「自分は正座させられても三〇分や一時間はさして苦痛を感じない」と述べており、また「取調べ中殴る蹴るなど身体に手をかけられたことはない」ともも述べていることと、帰山刑事の原審における証言とを対比して考えれば、被告人は取調べに当り帰山刑事から正座を命じられた際には、三〇分乃至一時間位、即ち自己にとりさして苦痛を感じない範囲ではこれに応じたが、それ以上正座をくずしても取調官から暴力を用いて正座の続行を強制されたことはなかつたものと解するのが相当である。畳敷の部屋で座つて被疑者の取調べを行うこと自体好ましい方法ではないけれども、右程度の正座の要求が直ちに供述の任意性に疑を容れる程度の拷問と解することは相当とはいえない。また証五一号録音テープ一巻(一一月一一日の取調状況の録音)及び証六六号録音テープ一巻(一一月一九日の同様録音)を検討しても、前者においては、被告人は極く自然にかつ自由に、允子殺害の事実を供述していることが認められ、後者においては、後半、特に允子殺害後その所持していたハンドバッグの処置につき、帰山刑事等から相当強い調子の質問を受けているが、被告人はこれに対しても結局最後まで自己の主張をまげずに応答していることが窺われ、この点からも右勾留期間中の捜査官の取調方法が違法であつて、そのため被告人が供述を強制され虚偽の自白をするに至つたとの疑を容れる余地は見出せない。その他記録を調査しても取調時間や取調方法につき、その供述の任意性に疑を容れるような事実は見当らない。

ところで、原判決は、第一次勾留中の被告人の自白は被告人の弁護人選任権、防禦権を著しく侵害して取調べが続行された結果得られたものであるとして証拠能力を否定しているので、この点について検討するに、前記経緯によつてみると、捜査本部は一一月七日以降は第一次勾留の身柄拘禁状態を利用して、被告人の取調べをもつぱら允子失踪事件について供述を求めることに集中し、四日間にわたる追及の結果ようやくにして右事実について強盗殺人の自供を得るにいたつたもので、右勾留を強盗殺人についての自白獲得の手段として利用した面のあることは否定し得ない。かような状況下における被告人の取調べは供述拒否権を侵害して自白を強制する危険性を内蔵するものであり、かような危険を排除し、被告人に供述拒否権を保障し、妥当な取調べ方法が行なわれることを保障するには、被告人の弁護人選任権が充分保障されなければならず、本件においてかかる必要性は原判決の指摘するとおり被告人に対する取調べが允子失踪事件について開始された一一月七日から、右自供を得るにいたるまでの段階において特に大きいものといわなければならない。そして、もしこの段階において被告人の弁護人選任権を侵害して被告人の取調べが行なわれ、右のように強盗殺人についての自白を得たものであるとすれば、かような自白は任意性に疑のあるものとしてその証拠能力を否定されざるを得ない。のみならず右自白後の第二次逮捕勾留に際して被告人にあらためて弁護人選任権を保障したとしても、第二次逮捕勾留中の被告人の取調べが第一勾留と拘禁の場所、取調官が同一で、かつ第二次逮捕勾留中の自白の内容が第一次勾留中の自白の補完ないし総括的なものであるかぎり、右第二次逮捕勾留中の自白は第一次勾留中の自白と一体のものとして評価され、かかる自白を内容とする被告人の供述調書は前同様証拠能力に疑あるものと解するのが相当である。かように考えると、一一月七日の被告人の「佐々木哲蔵を呼べ」という言辞が佐々木哲蔵弁護士を弁護人として選任したい旨の申出であるとすると、捜査本部は被告人の弁護人選任権防禦権を著しく侵害して被告人を取調べたことになり、第一次勾留及び第二次逮捕勾留中の被告人の供述調書はすべて証拠能力に疑あるものと考える余地がある。しかしながら、なるほど、被告人の右言辞は形式的にみると佐々木哲蔵弁護士を弁護人として選任したい旨の申出であると解する余地があるわけであり、帰山刑事もこの点を配慮して上司である小林史朗警部に報告をしたのであるけれども、前記原審における帰山証人の供述によつても、被告人がこのような発言をしたのは右の一回のみであり、他方第二次逮捕勾留に際しての司法警察職員作成の昭和四〇年一一月一五日付弁解録取書、検察官作成の同月一七日付弁解録取書、裁判所書記官作成の同日付勾留質問調書によると、被告人は第二次逮捕勾留に際して司法警察職員、検察官及び勾留裁判官からそれぞれ強盗殺人死体遺棄の事実の要旨と弁護人を選任できる旨の告知を受けながらいずれも弁護人選任を希望しなかつたことが認められること、本件記録によると第一次逮捕勾留の基礎となつた詐欺事実について原裁判所に起訴され、同裁判所の弁護人選任の照会に対し一一月一三日付で貧困のため弁護人を選任できないから国選弁護人を請求する旨の回答をよせ、強盗殺人死体遺棄の事実について原裁判所に起訴され、同裁判所の同様照会に対して一二月九日付で自ら弁護人を選任しないし国選弁護人選任の請求もしない旨の回答をよせ、原裁判所は職権で国選弁護人を選任したこと、さらに詐欺事実で原裁判所に追起訴され、同裁判所の同様照会に対しても昭和四一年一月二一日付で貧困のため弁護人を選任できないから国選弁護人の選任を請求する旨の回答をよせていることが認められ、尚原審第二〇回公判調書中被告人の供述記載によると、被告人は第一次逮捕に際しては、別の宇佐美弁護士を弁護人に選任したい旨帰山刑事に申し出たと供述していることを併せ考えると、被告人の前記言辞が果してその真意に出たものか否か疑わしい面もあり、そのいずれであるかはにわかに断じ難いところである。また原審第一一回公判調書中証人小林史朗の供述記載によると、同人は帰山刑事から被告人の右言辞についての報告を受けると、被告人の内妻米田美智子に警察官を派遣し、福知山市在住の被告人の実母及び実兄、大阪市内在住の被告人の従兄に電話で、それぞれ被告人の右意向を伝えたというのであるが、当時資産もなく所持金もすくない被告人については、右はむしろ常識的に妥当な処置とも考えられ、その結果右内妻や親族らにおいてどのような処置をとり、その結果が被告人に何時どのように連絡され、これに対し被告人が如何に対処したかという事情が、被告人の前記言辞が真意に出たものか、一時の精神的動揺(被告人がある程度激動的な性格を有することは、原審における帰山証人、塚田善治証人に対する被告人の発問からもうかがわれる。)に基づく発作的言辞にすぎないものであつたのか、あるいはかりに真意に出たものであつたとしても内妻や親族等の意向を容れて自己の意思を拠棄したものか、などの判断をするについて重要な要素となるものと考えられさらにこの点について、審理を尽す必要があるものと認められる。原審がこの点について審理を尽すことなく直ちに、被告人の右言辞をもつて真意に出たものであると認定し、弁護人選任権の侵害があつたものと判断し被告人の自白の証拠能力を否定しているのは、前記法律解釈の誤りとともに、審理不尽の結果訴訟手続の法令違反を犯したもので、この点の違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、この点において原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。

検察官の控訴趣意第二点、訴訟手続の法令違反、事実誤認の主張について(被告人の自白の信用性及び補強証拠の存否について)

論旨は、被告人の司法警察職員に対する昭和四〇年一一月一五日付弁解録取書、検察官に対する同年同月一七日付弁解録取書、裁判所書記官作成の同日付勾留質問調書における被告人の自白は十分信用することができるし、また被害者の死体その他の補強証拠が存在するのにかかわらず、原判決は次の理由で右各自白は信用できず補強証拠もないと判断して被告人に強盗殺人死体遺棄の事実について無罪を言い渡しており、原判決の右判断は証拠の取捨選択を誤り事実を誤認したものである。すなわち、まず原判決は、次の(一)ないし(五)の理由により前記第一図に基づいて允子の死体を発見したという原審証人小林史朗、同片岡義盛、同落合敏則の各供述は信用し難く、第一図に基づいて死体を発見したものと認める証拠はないと判示している。すなわち、(一)第一図は本件捜査においてきめ手ともいうべきものであり、これを死体発見現場で紛失したというようなことは理解し難く、右紛失に気付いた時期についても捜査官の供述はまちまちであつて、かようなことは理解し難い。(二)小林史朗が死体遺棄現場に到着して捜索開始後一〇ないし一五分の間に死体を発見したというが如きことも現場の状況にてらし疑問である。(三)捜査本部が允子のハンドバッグ拾得の事実を知つたのは一一月一五日のことであるというが、捜査本部は九月一六日付手配書を配布するときすでに允子がハンドバッグを所持していたことを知つていたし、一一月七日右ハンドバッグは鎌谷照夫により兵庫県宝塚警察署宝塚駅前派出所に届けられている点などからみると、右は疑問である、(四)前記第二図は、右小林らによる死体発見後、死体発見の事実が住吉署において被告人を取調べていた帰山刑事に連絡され、右連絡の後に作成されたものである。(五)被告人の原審裁判長宛上申書添付の死体遺棄現場略図(以下第三図という)によつてみると、第一図は第三図よりもはるかに簡単なものであつたことが推認されかような簡単な略図を手がかりに死体を発見することは困難である、とするのである。しかしながら、右(一)については、第一図は被告人の自白が真実であるか否かの心証を得るため書かせた「メモ」的なものにすぎず、自白調書の末尾に添付する意図のもとに作成されたものではなく、捜査官が死体発見のうれしさのあまり第一図の保管について十分な配慮を怠つたため紛失したもので、捜査官のすべてが第一図の保管責任を負つているものではないから、その紛失を知つた時期が区々であつても異とするに足らない。(二)については、小林史朗は死体捜索班の指揮者であり、指揮に好都合な山道に入り、たまたま死体遺棄現場方向に進んだところ、発見できたというにすぎず、短時間内に発見しても不自然ではない。(三)については、ハンドバッグは鎌谷照夫によつて拾得され宝塚駅前派出所に届けられたが、同人が残したメモによると拾得場所を単に「六甲山凌雲荘下一〇〇メートル」と指示するにとどまり、右程度の漠然とした指示に基づいてハンドバッグ拾得場所ひいては死体遺棄現場を発見しようとすると相当大規模な捜索が行なわれなければならないが、本件ではそのような大規模な捜索が行なわれたとする資料はなく、鎌谷照夫が死体発見を報ずる新聞記事をみて宝塚警察署に対し右ハンドバッグが允子所持のものではないか、との電話連絡をし、これによつてはじめて捜査当局において右ハンドバッグが允子のものであることを知つた旨の原審証人松原久、同竹原隆房、同栢木義一、同三好咲一の各供述は信用できる。(四)について、被告人が第二図作成当時帰山刑事が死体発見の連絡を受けていなかつたことは原審証人山崎久夫、同落合敏則、同柴田昇の各供述により明白である。(五)について、被告人が第一図を作成するに際し帰山刑事が誘導していないことは原審における同人の証言により明らかであり、第一図は原審証人帰山次夫、同小林史朗、同片岡義盛、同落合敏則、同山崎久夫の各供述によると六甲山ケーブルの終点を基点とし、ドライブウェイ、茶屋、茶屋から右へ分岐する石段のある地道、さらにこれより右に入つたところの下方に死体遺棄場所を示す×印が記入されたかなり具体的なもので、これに基づいて死体遺棄現場に到達できる程度のものであり、第一図は前記上申書添付の第三図に近いものであつたことは被告人の認めるところでもある。以上の点からみると、第一図に基づいて允子の死体を発見したとする前記各証言は十分信用できる。つぎに、原判決は、清和園アパート管理人小森ヒサエの「八月四日午前六時半ころ掃除のため階段を降りて行くと允子の部屋から男が先に出て次に同女が出てくるのに出会つた」旨の証言を信用して、被告人の「八月三日午後六時三〇分ころ允子を同アパートから誘い出し、午後八時三〇分ころ六甲山において同女を殺害した」旨の自白は信用できないとしている。しかし、平野安順の司法警察職員に対する昭和四〇年九月一〇日付供述調書によると右小森は八月五日に右平野に会つた際、同人に対しては八月三日の晩か八月四日の朝かはつきりしないが允子が男と一緒に出て行くのをみたと話をしていることが認められること、右小森は同月四日朝五箇荘保有所の岡本晴雄らの問合わせの電話に対し、允子が同日の朝外出したとは答えていないこと、右小森の記憶力は減退し視力も十分でないこと等から、小森ヒサエの右証言は信用できない。これに対し允子は同月三日午後五時三〇分ころ保育所を退出していること、同月五日に右平野が允子の居室に立入つた際の室内の状況、被告人の原審公判廷で陳述した上申書において八月三日午後七時ころ篠崎(または篠原)という男に手紙をもたせて允子を清和園アパートから誘い出した事実を認めていること、によると允子は同月三日の夕刻に同アパートを出たものと推認されるのである。

さらに、原判決は、被告人には允子を殺害する動機が薄弱であると判示しているけれども、被告人の供述する犯行の動機は允子から借金の返済を迫られていたことと、被告人と同女との深い仲を内妻に知られたのではないかと考えたのが動機であるというのであつて、それはそれなりに理解できるところであるし、借金の返済を迫られていたことについてはこれを裏付ける村井琴子の供述もあるのであつて、殺害の動機は薄弱ではない。さらに原判決は死体遺棄現場附近の明るさ、人通りの状況から人知れず允子を殺害し死体を遺棄することは困難であると判示しているけれども、当時は死体遺棄現場附近は霧がかかつており未知の人の顔の判別が困難な程度の明るさで人通りもまばらであつたから、被告人が右行為に出ることはさして困難ではないのである。以上の諸点において原判決は証拠の取捨選択を誤り、その結果事実を誤認したものである、というのである。

よつて検討するに、検察官指摘の各弁解録取書、勾留質問調書に、允子に対する強盗殺人についての被告人の自白が記載せられていること、原判決は右各調書の証拠能力は認めながら、検察官指摘のような理由により、右自白にはその真実性を裏付ける的確な補強証拠に乏しく、かえつてその信用度を減殺するような諸事情が存在するので、結局右自白には信用性がないと判断していることは所論のとおりである。また、被告人は原審第二回公判廷において、本件強盗殺人の事実を否定しているのか一部自白しているのか不明のような供述をしていることは原判決説明のとおりである。

(一)よつてまず原判決が前記自白の信用性を減殺する事情として被告人作成の略図(第一図)に基づいて允子の死体を発見したという原審証人小林史朗、同片岡義盛、同落合敏則の各供述は信用し難いとしているので、右允子の死体発見の経緯及びこれと表裏をなす允子の白革ハンドバッグ入手の経緯につき検討する。(イ)一一月七日鎌田照夫とその友人が六甲登山中、後記地獄谷の谷間(後に允子の死体が発見された位置より大略東方11.4メートルの地点)で白革製ハンドバッグを拾取し、不審に思つて附近を捜したが異状が発見されなかつたので(実際には後に允子の死体の発見された位置とは反対の方向を捜したようである)これを携えたまま登山を終り、帰途国鉄宝塚駅前の巡査派出所に拾得物として届出たが、係員が不在であつたため、紙片に自己の住所氏名と共に拾得場所を「六甲山凌雲荘下一〇〇メートル」と記載して右ハンドバッグと共に同派出所において来たこと、鎌谷は一一月九日宝塚警察署から拾得物受領の通知を受けたが他に警察から何の連絡もないうち、一一月一一日同山中で允子の死体が発見されたとの新聞記事を見たので、右ハンドバッグが同女の所持品ではないかとの疑を持ち、一一月一四日宝塚警察署にその旨電話連絡したけれども要領を得なかつたこと、一一月一八日に至り警察官の来訪を受け右ハンドバッグ拾得の事情につき尋ねられたことは、同人の司法警察職員に対する供述調書により明かであり、同人は同日警察官を案内して拾得現場を指示したことは栢木義一作成の同日付報告書(記録三六四丁)により認め得るところである。(ロ)また司法警察職員作成の現場の実況見分調書、原審の各検証調書によれば、允子の死体発見現場は、六甲山ケーブル終点駅から山頂に向う自動車道路を約2.3キロメートル登つた附近の左側にある一軒の茶店(谷口孝道方)の前で右道路が大きく左に曲る地点から右に分れて山頂に向う歩行者用の地道に入り、約八〇メートル進んで階段状をなして左に曲る地点からさらに右に分れて山腹を通る小径に入り、約二七メートル進んだ地点の右側崖下の茂みの中(右小径から下方約7.7メートル)であり、右自動車道路の右側、右に分れる地道、小径の右側は通称地獄谷と称せられる深い谷で樹木が茂り、また右小径の左側は山頂に向い急な登り斜面をなし、小径から上方約一〇〇メートルにはホテル凌雲荘(当時建築工事中)があり、いずれも通常の六甲登山者の足を踏み入れる場所ではないこと、しかしながら右死体発見場所は、場所的には前記のような特徴があり、前記自動車道路が左側にある一軒の茶店の前で大きく左カーブしていること、そこから右に入る地道及び階段状の下から更に右に分れる小径の指示があれば、比較的容易に現場に到達できるものと認められる。(ハ)一方原審第三五回公判調書中証人谷口孝道の供述記載によれば、一一月一一日右場所で允子の死体が発見される以前に、右地獄谷を多数の警察官が捜索したような事実はないことが窺える。

以上の事実関係からみれば、もし本件捜査に当つた大阪府警本部捜査一課の捜査員が一一月一一日允子の死体発見以前に鎌谷照夫の拾得した右ハンドバッグを入手していたとすれば(同ハンドバッグが允子の所有品であることは、証三一号、三二号等のハンドバッグの在中品からも容易に判明するところである)、まず拾得者鎌田照夫について拾得場所を尋ねるのが常道であるのに、それがなされていないことは前記のとおりであり、また「六甲山凌雲荘下一〇〇メートル」との前記拾得届の記載をたよりに、その附近に允子の死体があるものとの仮説をたて、捜査官自らの手で本件場所を捜索するとすれば(拾得届からはハンドバッグ拾得場所が前記小径の上方が下方かも不明である)相当大掛りな山狩を必要とするように考えられるが、そのような措置が執られた形跡のないことも前記のとおりである。なお前記証五一号、六六号各録音テープを比較検討しても、一一月一一日当時、捜査官が前記ハンドバッグ拾得の事実を知つていたものとは考えられない。一方允子の死体発見場所は深い谷ではあるが、前記のような極めてはつきりした特徴があるのであるから、どのような簡単な略図であるにせよ、前記各特徴さえ記載されていれば、容易に現場附近に到達し得るものと認められるのであつて、被告人が原審裁判長に宛てて作成した略図(第三図、記録一四四一丁)程度のものでも十分かと考えられる。そして一一月一一日には小林史朗を隊長として約九名の捜査員が、被告人作成の略図(第一図)を携えて現場に赴き、前記一軒茶屋の附近で車を降り、各捜査員はそれぞれ右側の通称地獄谷に分け入り、小林は指揮者として谷の上方を通ずる前記地道から更に小径へと進んだものであり、この行動には何も不自然さは感じられない。結果的には右小林が直線的に死体遺棄現場の上方に達し、茂みの間から僅かに見えた允子の着衣を発見し、それが死体発見につながつたものであるが、右経過からみても右小林が比較的短時間内に允子の死体を発見したことにより、同人が予め死体の存在場所を知つていたものとの疑を容れることは行過ぎと解せざるを得ない。

もつとも原判決指摘のとおり、捜査一課係員が宝塚警察署から前記白革ハンドバッグの引渡を受けた経過についてはやや不明瞭な点があり、また小林等は前記のとおり被告人作成の略図(第一図)を携えて允子の死体捜索に行つた際、その略図を紛失するという不手際があるので、原判決がこれらの点に着目して、捜査員は予め右ハンドバッグの引継を受けていたのではないか、あるいは予め允子の死体の存在場所を知つていたのではないかとの疑を持ち、前記小林、片岡、落合の各供述を措信しえないものとするのであるが、他に特段の事情が認められぬ本件においては、右は、前記説明に徴しても、やや行過ぎかと思われる。ただし小林等捜査員は、被告人の一一月一〇日夜の自白(内容は一一月一一日付供述調書と大略同一であることは帰山証言により認められる)及びその際作成された略図(第一図)により允子の死体を捜索発見したものであるが、右自白及び略図が正当な取調によつて得られたものであるか否かについては前説明のとおり疑を残すところであるから、もし右自白及び略図が不当な取調により得られたものとすれば、それに基づく証拠蒐集、特に被告人の自白により允子の死体を発見したとの経過は証拠上主張し得なくなるものと解すべきである。

(二) つぎに、原判決が前記自白の信用性を減殺する事情として原審証人小森ヒサエの証言を措信できるとしている点について検討する。原判決が、原審第一四回公判調書中の証人小森ヒサエの、「昭和四〇年八月のはじめころの保育園から電話があつた日の朝六時半ころ清和園アパートの一階を掃除のため階段を降りて行くと允子の部屋から男が先に出てくるのに出会つた、その男は背が高く眼鏡をかけた男で被告人ではないと思つた」旨の供述記載をくつがえすに足る証拠はないとし、右供述記載からすると、允子がその前日である八月三日午後六時三〇分ころ同アパートを出て同日午後八時三〇分ころ殺害されたとは認められないと判示していることは所論のとおりであり、右供述を信用する限り、原審と同様の決論にならざるを得ない。ところで、原審第三五回公判調書中の証人平野安順の供述記載及び同人の司法警察職員に対する昭和四〇年九月一〇日付供述調書によると、平野安順が八月五日清和園アパートへ行き合鍵を用いて允子の居室に立入つたところ、玄関先の郵便受けの下の下駄箱の床に昭和四〇年八月四日付朝刊、同日付夕刊、八月五日付朝刊が落ちており、室内の木箱の上に同月三日付夕刊を一番上にして新聞が重ねて置いてあつたことが認められ、その他室内の状況からみると、允子が最後に清和園アパートを出たのは同月三日付夕刊配達の後で翌四日付朝刊配達の前であつたことが明らかである。したがつて、同日付朝刊が同アパートに配達された時刻の如何は右小森ヒサエの供述の信用性を判断する重要な資料となるものと認められる。また、小森ヒサエの司法警察職員に対する同年九月一三日付供述調書及び平野安順の司法警察職員に対する右供述調書によると、小森ヒサエが、允子が右のように清和園アパートを男と一緒に出て行くのに出会つた際の允子の服装は「濃い焦茶色様地に黄色や桃色様の色が三色程混つた花柄のある上衣とスカート」であつた(もつとも前記原審公判調書中の証人小森ヒサエの供述記載によると堀川の服装はわからないというのである)、というのであるが、允子が八月三日保育所に出勤した当時及び同女が死体として発見された時着用していた衣服は無地の濃紺レースの半袖スーツであつて、小森ヒサエの見た際の服装とは明かに異るものである。そして右は単なる服装についての小森ヒサエの認識ないし記憶の誤りであるのか、全く別人を允子と見誤つたのか、あるいは実際に允子は小森が見た状況の際小森のいうような服装であつたのか(そうすると、允子は一旦外出した後帰宅し服装を着替え再び外出して殺害されたのか―かく想定すると前記新聞紙との関係で問題を残すことになる―あるいは小森の見たのは別異の日であつたとの可能性も濃くなる)は右小森の供述の信用性を判断する重要な資料となるものと認められる。そして、右朝刊配達の時刻、堀川が右花柄のある濃い焦茶色のスーツを着用していたか(すくなくとも允子がその様な服を所持し、これを着用する可能性があつたか)の点について原審において取調べた証拠によつては明確でなく、さらに審理を尽す必要があるものと認められる。また前記平野調書によれば、八月五日允子の部屋には日傘が残つており(当時は盛夏である)取入れた洗濯物が未整理のまま置かれていたことも認められるので、これらの事実との関連も検討さるべきである。

(三) そうすると、以上の諸点について審理検討することなく、死体発見に関する原審証人小林、同片岡、同落合の各供述を信用し難く、同小森ヒサエの供述を信用しうるとして被告人の前記自白の信用性を否定した原判決は、審理不尽の結果、証拠の取拾選択を誤つたもので、右訴訟手続の法令違反は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、この点においても原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。

以上の次第であるので、検察官のその余の論旨に対する判断及び弁護人の控訴趣意に対する判断を省略し、なお原判決が無罪とした右強盗殺人死体遺棄の罪は有罪とした詐欺の罪と刑法四五条前段の併合罪の関係にあるものとして起訴されたものであるので有罪部分についても破棄するのが相当であるから、刑事訴訟法三九七条一項、三七九条により原判決を破棄し、同法四〇〇条本文により本件を大阪地方裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり判決する。

(田中勇雄 尾鼻輝 次小河巌)

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